ジェリー・ダマーズによるプリンス・バスター追悼文を翻訳しました | Jerry Dammers on Prince Buster, English to Japanese translation

2018年9月11日火曜日

Blog Music Writing

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ジェリー・ダマーズとは

インドのタミル・ナドゥで生まれて、ロンドンでモッズになり、ヒッピーになり、スキンヘッドになり。

かの、ザ・スペシャルズを結成したジェリー・ダマーズ。

ジェリー・ダマーズの場合はインドからの、レゲエですが

私の音楽の旅は、レゲエからのインド、と逆バージョン。

プリンス・バスター追悼文

そんな彼が、スカとロックステディの歴史の中で最も重要な一人とされるジャマイカ出身のシンガー、プリンス・バスターが死去した際、追悼として発表した文章の翻訳をしました。

ここに上げておきます。
スカや2トーン、レゲエ好きは必読です。

ジャマイカン・ミュージックの最初のキング

元の記事

"プリンス・バスターに借りがあるのは何も音楽だけじゃない。すべてのポピュラーカルチャーだ。 The Specialsのリーダーは語る"

私たちは再び、音楽の巨人たちがこの地球上を闊歩していた時代の、その巨人の一人を失ってしまったようだ。

プリンス・バスターは戦後、植民地独立後時代を代表するゲットーのパイオニアであり、ボクサーであり、はたまたサウンドシステムのオペレーター、DJ、プロデューサー、パフォーマー、ユーモア作家、社会と政治のコメンテーター、レコードショップ/レーベル/ジュークボックス帝国のオーナー、尖ったファッションリーダーであり、あらゆる面において、その時代のキングストン、つまりはジャマイカ中で一番クールな男であった。(それはつまり、世界一であったことを意味する。)

彼の活動のすべては、彼のユニークかつ無類の声とパフォーマンス、リリックに集約されていた。彼は自らをプリンスと名乗り、人々の声だとした。彼はその主張通りベストであり続け、ボクシングのすべての大会で勝利し続けるように、熱くタフなリズムを奏でるべく、ジャマイカいちの腕利きのミュージシャンたちを彼のバックトラックとプロダクションに起用した。

彼の活動に徐々に翳りが見えたとき、私は彼がスタジオの仕事を離れた事には敬服した。プリンス・バスターにとって、ベストであることだけが自らを満足させたのだ。そしてそれは、彼の驚くべきその声とパフォーマンスを今日まで薄めることなく完璧なまま残す結果となった。彼は稀ではあったがライブを続け、いつでも最高のクオリティーを保っていた。

私はラッキーなことに彼のツアーに一度だけ同行することができた。彼は彼自身をもって"クール"であることの本当の意味を教えてくれた。("クール"は昨今、乱用されすぎている)狂乱や馬鹿ども、不平不満が彼の周りをのさばっていても、まったく問題ではなかった。(それは彼のようなレジェンドには必然的に起こる)彼はいつも平然と落ち着いていた。誰に対しても礼儀正しく、必要ないことは一言も口にしなかった。その様子はとても面白かった。

プリンス・バスターはとても賢く、輝くようなユーモアのセンスを持っていた。その"ゲットーユーモア"は彼のリリックの心臓部であり、ジャマイカにおける人気の大部分を担っていた。ゲットーの道徳観と彼のリリックが密接な関係を持っていたのは紛れも無いことだ。私が好きな彼の"Rude Rude Rudee"の、おそらくキューババージョンのイントロで彼は指令を発しているかのようだ。“お前は自分のことをルードボーイと呼んでいるが、ガラス張りの温室みてえな家に住んでるのを知ってるぞ。だから石を投げるなよ!”
(諺のひとつ。People who live in glass houses shouldn't throw stones. ガラスの家に住む者は石を投げてはならない=すねに傷をもつ者は他人の批評などしないほうがよい)

"その声"がステージ上で自由に表現されるとき、それは完全に損なわれることなく、彼の遺物のように、往年の頃とまるっきり同じように発せられた。それはうなじのムダ毛のようなクリシェだ。彼はいつも歌とトークをシームレスに、美しい旋律のようにミックスさせていた、彼がそのどちらをやっているのか、言い当てるのは不可能なほどだった。そんな風に2つのことを同時にやってのけることができるような人を、他には見つけられない。

彼は世界的なジャマイカンミュージックの最初のアンバサダーであった。彼の声はそのまま第三世界の声であった。 ー我々はラッキーなことに英語を話すー 彼はこの世界で英語を話すリスナーの誰もにアクセス可能だった。

最初の頃、彼は主に、彼のテーマと関係があるワーキングクラスのキッズたちから注目を集めた。当初、スカやレゲエはメインストリームやロックの批評家たちから無視され、嘲笑の的であった。おそらくその原因の一端は、彼がジャマイカのリリシストの第一線として活躍していたからであろう。公然と恥じること無く、自らのテーマを歌いあげていった。それはヨーロッパやアメリカではほとんどあり得ないことであった。

ゲットーの暴力と犯罪からセックス(詳細にわたる)に至るまで、ブラック・パワーとブラック・プライドから社会的な不正と貧困問題に至るまで、植民地主義とアフリカとの結束における主張の自由からその他の重要なテーマ、たとえば彼の音楽のライバルを嘲り、彼らを墓場に陥れること、または彼自身のレコードがいかに優れているかの解説に渡るまで- 禁じられたことはなにもなかった。このようにして、彼はヒップホップやその他のジャンルにリリックの点で影響を与え、世界中がそれに続いた。

バスターと彼のジャマイカの同胞たちはリアルな言葉と社会的テーマを自由に取り扱った。それはついに音楽だけでなく、メインストリームのテレビドラマやコメディにおいてもありふれたものになった。バスターをパイオニアたらしめたそのスタイル、インストゥルメンタルのバッキングトラックの上に詩をのせるアイデアは、DJ Cool Hercがブロンクスで紹介したのち、ヒップホップの世界では基本となった。ヒップホップからグライム、ダンスホール、レゲエはどれも、多かれ少なかれプリンス・バスターの、リズムの上で歌い語るというスタイルから影響を受けている。

バスターはインターナショナルな活動を始めた、ジャマイカンミュージックのまさに最初のキングであり、二番目のキングの助けも借りながら、レゲエを世界で最も有名なジャンルへと押し上げた。その有名性は、レゲエ自身がその成立に一役を買ったヒップホップというフォームよりも結局勝ってしまった。

私はプリンス・バスターが莫大な収益を上げたとは到底思えない。しかし私は、彼が20世紀後期の世界の音楽シーンで、最も影響力のあるミュージシャンのうちの一人になったと確信している。私自身と、すべてのツー・トーン・バンドは彼に感謝という莫大な借りがある。プリンス・バスターと彼のジャマイカンミュージックの同胞たちの功績なしに、私達の音楽のキャリアはありえない。

In the words of Madness: “取り返せ…俺らはプリンスを取り戻したいんだ”

About Me

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Noriko Shakti シャクティ紀子
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音楽プロデューサー、コンポーザー、タブラ奏者。東京出身、インドのゴアにスタジオを持ち、ビーチライフをアーティストとして楽しんでいます。国内外で音楽やアートのプロジェクトに参加、ミュージシャンとして仕事しています。
Music producer, Composer, and Tabla player from Japan. Currently based in Goa, India. Got baptized by edgy dance music scene in Tokyo. My interest in eclectic music led me to India, earned a M.A. in Indian Music, Tabla under Indian government scholarship. Now pursuing a Ph.D. I work and participate in Music and Art projects internationally.

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